福岡名物と言えば
『明太子!!!!!』
と頭に浮かぶ人が多いところかと思います。
そんな中、気になるニュースが飛んできました。
『明太子用のスケトウダラの卵がロシア産の為、制裁で福岡で生産ができなくなる可能性がある』ということ…。
大変です💦美味しい明太子が食べられる機会が減ってしまうかもしれません💦💦
そんなことを感じました。
でも、ここでさらに気になることが出てきました。
ロシア産のスケトウダラの卵がなぜ福岡名物の明太子となり、今回大きな影響がででてしまうのか??
大きな影響を受けてしまう理由は福岡名物の明太子の原材料のスケトウダラのほとんどが輸入品となっていることでした!!
各明太子会社によって輸入品の割合は異なりますが約9割がアラスカ産、ロシア産、アメリカ産など、海外から輸入と言われています。
ここでふと思いました。
海外のものであれば日本どこでも作れるのでは!??
なぜ北海道とは離れた福岡で名物となったのか気になるところです。
と言う事で今回はその理由について
できる限りわかりやすく情報をまとめてみました。
1.明太子は元々朝鮮半島からやってきた
元々、スケトウダラの卵巣を食べ出したのは17世紀~18世紀にかけて朝鮮半島で広まったと言われています。
この頃、日本は江戸時代の頃。
のちに満州から帰国した人たちが日本に明太子を持ち帰ったとされたことから知られていきます。
明治時代、樋口 伊都羽(ひぐち いづは)という人物がいました。この方が明太子の元祖とも言われています。
明太子のルーツとは
樋口さんは朝鮮半島に渡り警察官になりました。その後、韓国の元山で明太(すけとうだら)漁業等に従事しました。
漁民が明太(スケトウダラ)の魚体だけを使い、卵のほとんどが捨てられているのを見て、日本向けに商品化できないかと考えできたのが辛子明太子。
明治40年(1907年)「明太子の元祖」という商標で釜山に樋口商店(明太子製造問屋)を創業しています。
そして大繁盛し釜山の人達に広まっていった様です。
『辛子めんたいこ』は昭和に入った頃、朝鮮半島から山口県の下関(北九州と関門海峡を挟んだ場所)へと輸入もされるようになりました。
ですが、当時は日本の口には合わず人気が無かったようです…。
日本で今の『辛子明太子』の味になったのは終戦後の話。
福岡県や山口県下関は朝鮮半島と近く交流が盛んだったこともあり日常の総菜として魚屋の店頭に並んでいたそうです。
次第に、韓国で食べていた『たらこのキムチ』を自分達の口に合うようにつくろう!!
そんな考えから
塩たらこと唐辛子の入った調味料で漬け込んで作り始めました。
これが日本の明太子の始まりです!!
そして、この生産をメインで行っていたのが福岡の博多となっています。
2.発祥は山口県下関市?福岡県の博多?
元々朝鮮半島で食べられていた『辛子明太子』が日本で輸入されていたのは山口県下関でした。辛子明太子やタラコの取引が多くされていた地でもあり、初めての日本に明太子がやってきた地という理由から下関が辛子明太子の発祥地が言われています。
そして、その下関で研究を重ねていたのは高井英一郎さん(下関の【イリイチ食品】の創始者の方)です。昭和22年(1947年)塩漬けした紅葉子(スケトウダラの卵巣)に唐辛子をまぶした『まぶし型辛子明太子』を生み出しています。
その後、日本で初めて辛子明太子の専門店ができたのは昭和36年(1964年)です。山口県下関市にある【前田海産】が創業されました。
創業当初から人脈で全国の魚市場ルートでの販売を確立させています。これをきっかけに『辛子明太子』の知名度が上がっていたとも言われています。今では業界初の農林水産大臣賞を受賞するほどの良質な品質の明太子を作っています。
しかし
一方お隣、福岡県の博多でも動きがすでにありました。
下関の【前田海産】が創業する前の昭和23年(1948年)に博多の中州市場で【ふくや】さんが明太子の専門店を創業しており『味の明太子』という名の辛子明太子を販売しています。これが日本で初めて辛子明太子が販売された日となります。
ふくやの創業者は川原 俊夫さんです。
川原さんが生み出した明太子は今、主流になっている『漬け込み型辛子明太子』と言われています。これは唐辛子等の調味料液に漬け込んだものとなります。
現在、山口県で作られている辛子明太子はこの博多で始まった漬け込み型で製造しているところがほとんどのようです。
メモ
川原 俊夫さん(ふくやの創業者)は朝鮮半島で生まれた方です。
本場の『辛子明太子』を知っており、日本でも広めたいと考えたことから日本人の口にあう明太子づくりが始まっています。
参考
川原さんのことやふくやさんのことについては公式HPで【ふくやヒストリー】というマンガが出ているので、興味がある方はそちらをご参考下さい。
ここで余談ですが上記の話から『明太子の日』は2つ存在します。下関の会社と博多の会社でそれぞれ設けています。
■12月12日
【前田海産】が制定。大正3年(1914年)日本で初めて『明太子』という名称が新聞(関門日日新聞)に登場した日。
■1月10日
【ふくや】が昭和24年に初めて明太子を販売した日
それぞれ、同時期に日本人の口にあう『辛子明太子』を生み出していますがどうやって全国区に広まったのか?その秘密は博多の中州で始めた【ふくや】さんにありました。この後ご紹介していきます。
3.博多の明太子を広めた人物はふくやの創業者
最初に明太子のお店を出し販売を始めた【ふくや】でしたが、創業してすぐ売れたわけではなかった様です。
味は日本人の口にあわず、値段も高く(当時さんま一尾の12倍で高価)なかなか売れず・・・。
どうしたら日本人に好まれる味になるのか?
と試行錯誤を繰返し、繰り返し・・・
10年の歳月をかけてやっと好まれる、買って食べたくなる味になったそうです。
自分の納得のいくコクのある味、適度な塩加減、ふわっと漂う香り、ピリッとした唐辛子風味がでた『辛子明太子』の味がようやくでき、それから、山笠(博多の祭り)等の会合で試食してもらうのに明太子を持参しその美味しさは口コミで広まっていったようです。
さらに変化が起きたのは
昭和39年(1964年)アジア初の東京オリンピックが開催された年。
東海道新幹線が開通し東京~大阪の間の移動短縮がされました。
その頃ふくやさんへは口コミで広まって訪れた人達や大阪からの大口注文が入ってきたりと大忙しに。さらに新鮮な味を届けたいと航空便を始め東京等へも運ばれるようになっていったそうです。
人気は広まり、特許の話もでましたが
「ただの総菜たい!」
と言い製造法を秘密にしても仕方ないと明太子を作りたい人達に製造法を教えています。
その後、昭和50年(1975年)山陽新幹線の開通で博多駅が開業され『辛子明太子』は出張や観光で訪れた人達から博多土産として注目され、その美味しさはさらに全国へ広まっていた様です。
メモ
原材料で使用しているスケトウダラは創業当時、北海道のものを使用していた様ですが近年では約8割がロシア産のようです。
理由は国内で獲れる量が減少し数が限られており高価になったこと。海外のものの方がサイズが大きく安価で安定的な供給ができるということから現在では多くの会社が海外産のものを使用しているようです。
4.まとめ
ごはんのお供として最強の『辛子明太子』
博多土産のイメージが強いですが元を辿れば日本から朝鮮半島(今の韓国)釜山に行き、スケトウダラの卵巣の捨てられているところを見て活かそうと明太子を作り釜山で広げた樋口さんのおかげです。
そして、日本への輸入先の拠点となった山口県下関で日本人の口にあうように研究を重ねた高井さんがいて、同じころ博多でも朝鮮半島に元々住んでいた川原さんも同じく日本人にあう『辛子明太子』を作り始め、納得のいく味になるまで繰返し試行錯誤を行い長い年月をかけた結果、今の博多のお土産売り場に多く並ぶ明太子ができています。
『味の明太子』という辛子明太子をつくった【ふくや】の川原さんが自分の作った明太子が大変人気がでて特許を勧められたにも関わらず、自分のものにせず誰でも作れるように特許をとらず製造方法をいろんな人に広めた結果、博多で多くの会社が明太子を製造する事ができた為、川原さんの人柄の良さが博多の名物となったきっかけとも言えます。
また、新幹線が通ったことからより多くの人に食べられる機会ができたので公共交通機関が発展することで食の歴史も大きく変化しています。
『辛子明太子』意外と知らない事があれこれでしたね💦
いろいろ知るとふくやさんの明太子気になってきちゃいました!!!近いうち博多駅へ買いに行きたいと思います。
遠方の方はお取り寄せもできるみたいなので食べたくなった方はぜひプチ博多気分で♪
ふくやを始め明太子業界は今、ロシアの制裁によりスケトウダラの心配が続いて入る様です。ふくやさんは在庫が多く今のところは問題ないようですが長引くと苦しい状況になる様子です💦早く平和な世界になり、安心して生活できることを願いたいところです。
では、では今回はこの辺りで!
最後まで読んでいただきありがとうございました🌷
2022-03-12